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記事一覧
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平成時代は横田順彌さんとの時代
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「英、EU離脱案否決」「横綱稀勢の里引退」予期していたとはいえ、正月気分を押しつぶしてしまうかのような重苦しいニュースを報じた夕刊の片隅に思いも寄らぬ事が:。
SF作家の横田順彌氏が1月4日に73歳で逝去されたことが訃報欄に記されてあった。
今から30年以上も前の事。横浜駅東口地下街の書店で横田氏と会津信吾氏との共著「日本SFの祖 快男児 押川春浪」(パンリサーチ出版局)を見つけた。
SF小説にさほどの知識がない筆者がなぜこのタイトルに着目したのか。
それはこの時期の研究テーマの世界と浅からぬ関りがあったからである。
筆者にとっては高校、大学の大先輩に当たる大橋武太郎という人物の足跡を調べていた。
明治時代後期、旧制郁文館中学野球部の捕手であった大橋とバッテリーを組んでいた一学年下の投手・押川清の兄が当時の売れっ子作家、押川春浪であるという予備知識が横田氏とのご縁の源であった。
飛田穂洲著「野球生活の思い出」によれば、押川清投手のコントロールが乱れると、捕手の大橋は力任せの返球をする。叱咤激励の意味である。当時は捕手のみがミットを着用、投手は素手で捕球していたので、手のひらに激痛が走る。それに耐えられなくなった清は肩の不調を理由に大橋にバッテリーの入れ替わりを申し出る。今度は捕手の清が仕返しとばかりに投手の大橋に力任せの返球をする。お互い、意地の張り合い、がまんくらべである。
「巨人の星」にも似たようなシーンがあった。晩年、大橋武太郎は「押川、押川」とこの旧友の話をしていたことを遺族の方からも聞いた。
清の兄の春浪も大の野球好きであったが、腕前の方は弟には及ばなかったそうだ。早稲田大学の前身である東京専門学校在学中に野球部創設を志すも果たせなかった。
その後、前述の大橋武太郎が主将となって明治34年に結成されたチームが現在の早大野球部の始まりである。そして三代目主将が押川清。後にプロ野球創設にも関係し、名古屋軍の顧問兼マネージャーも務めたが、この名古屋軍の後身は現在の中日ドラゴンズ。
横田氏はこのチームの大ファンで、ごひいきチームの創設に本業であるSF小説の元祖の実弟が関わっていたことで、明治時代の野球への関心がより一層深まったということを「週刊ベースボール・大学野球特集号」への特別寄稿で読んだ。
この特別寄稿のテーマは明治・大正時代の早慶戦なのだが、横田氏が在学していた頃の法政大学は田淵幸一氏(元阪神)や山本浩二氏(元広島)らの活躍による黄金時代であったことや明治にいた星野仙一氏や早稲田の谷沢健一氏を野次りまくったことなども書かれていた。
星野氏も谷沢氏も横田氏が大ファンである中日ドラゴンズに後に入団し、主力選手として活躍することなど思いも寄らずに:。
本を買って、まだ見ぬ著者にこれ程までに親近感を抱いたことはなかったが、当時の筆者は自身の研究テーマを掘り下げるのに必死であった。
大橋武太郎についてより知るためには、その親友の兄の身辺も調べなければならない。
巻末の参考文献に記された数々の書籍を探すために、足しげく図書館に通った。入手した書のタイトルの上にはチェックを入れたが、膨大な資料を駆使しての横田氏の著作活動に敬意を抱いていた。そして、横田氏の研究成果の恩恵にも浴して、ようやく筆者のデビュー作「早稲田野球部初代主将」が完成した。
本来ならば、ご高著を参考にさせて頂いた御礼の書状を添えて、一部贈呈するのが筋であるはずだが、横田氏のご住所がわからず、失礼をしたままであった。
ところが、拙著上梓から一年近く経った頃、ご高著「明治バンカラ怪人伝」が筆者宅に届いた。「私、横田順彌と申します」で始まるご丁寧なお手紙までも添えてあった。
受け取った筆者の心の中は、挨拶の順序が逆になってしまったことへの申し訳なさと尊敬していた方から認めてもらえた嬉しさとが入り混じっていた。
それから程なく、横田氏ご本人と自由が丘にて初めてお目にかかった。
それ以後は、「朝日新聞」「本の雑誌」などに拙著の書評を書いて頂いたこと、二作目の「虹のスラッガー・河合君次伝」執筆のための調査でも資料等についてご教示頂いたこと、日本文芸家協会入会の折には推薦人となって頂いたことなど、ご厚恩は書き尽くせない。
つい何年か前、仕事に行き詰まり、自分という人間そのものにも自信をなくしてしまったことを別件での手紙に書き添えて送ったところ、暖かい励ましのお電話も頂いた。
小生にとっては、辛い気持ちを打ち明けられる数少ない知己の一人であった。
一昨年(平成29年)秋、拙著「畠山重忠」を贈呈し、御礼のお電話を頂いことが横田氏との最後の会話であった。
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