|
|
|
|
|
|
|
<< 2024年04月 >>
日 | 月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 | | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 | |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
「いじめをノックアウト」どころか判定勝ちですらない
|
前回、 横田順彌氏への追悼文の中で「いじめをノックアウト」というタイトルは同氏の文学にこそ相応しいと述べた。
それでは上記のタイトルで放映されているさる番組にはどうなのか?ということであるが、筆者には正直なところ今一つ腑に落ちないところもある。
もちろん、「いじめ」をテーマにした番組を放映していること自体は評価すべきであるし、出来るだけ子供目線で捉えようとする意図もあることは理解できる。
しかし、納得できるような話は少ない。
それはレギュラー出演者が女性で、我々男性とではいじめに対する受け止め方が異なっているからなのか?
それとも筆者の感覚が古臭いのか?
今の子供たちはどう感じているのであろうか。
もちろん、この番組を肯定的に受け止めている子供たちがいるというのであれば、それは意味のあることなのだろうが、もし筆者が例えば中学生くらいの頃にこの番組を見てもおそらくはほとんど感銘を受けなかったのではないのか、という気がする。
何ともつかみどころがない感想を書いているが、これだけは看過できない、と思っていた回が以前にあった。
いじめへの教師の介入について取り上げていたが、「割り込んで入って来てもむだ」「子供同士の問題に勝手に大人が入ってきたら、じゃまだし、逆にひどくなるから」という子供たちの声か紹介されていた。これに対する番組でのコメントは
「関わるなら最初から関わってくれ。とちゅうで気づいて大ごとにして、わかってないのに口出しされても何も解決しない。そういうことなんだろうな」と高橋さん。「やっぱり、見ていてほしいというのがいちばん。見ていてくれるってすごくうれしいことなんですよ。『点数上がったな』とか『髪(かみ)切ったのか』とか言ってくれてる先生だったら、『大丈夫か』って言われて『実は…』って言えるけど、その関係性つくってないのにとつぜん『いじめられてるのか?』って言われても、『いや』となるのは当たり前だと思う。だから、お前のことちゃんと見てるよというのを先生は出してあげるべきだなと思う」。あげるべきだなと思う」
http://www2.nhk.or.jp/school/movie/outline.cgi?das_id=D0005170369_00000
どうしても引っかかていたのは、「関係性つくってないのにとつぜん「いじめられているのか?」って言われても「いや」となるのは当たり前だと思う」という箇所である。「点数が上がったな」「髪の毛切ったじゃん」とか普段から言ってなければ、いじめに介入してはいけないということなのだろうか?
いじめを放置し、自殺などの最悪な事態になれば、学校側の監督責任が問われるのは、 数々の裁判での判例が証明している。
例えば、筆者が傍聴してきた神奈川県津久井町(現・相模原市)での事例のように
(参考:菊池道人 津久井町いじめ自殺事件http://www5e.biglobe.ne.jp/~manabi/4.htm)
この出演者は、普段からの教師と生徒のコミュニケーションの大切さを説いたつもりなのだろうが、教師にも色々なタイプがいる。日常は子供たちに無関心なように見えても、それはあくまでも外観的なものである場合もあるはずだ。
親しげに話しかけてくる先生だけが良い先生なのか。
無関心なように見える人が関心を持つようになるのは余程重大なことなのだ、という認識の仕方はないのか。
筆者の学校時代の記憶でも、温厚な先生が本気で怒った時は、普段から厳しい先生よりも怖かったという印象がある。子供たちはそうした姿を見て、
「あの先生、いつもはおとなしいけど結構熱いところもあるな」とか「無愛想だけど本当は優しい人なんだな」などと人間観察力を身につけることもある。
もし筆者自身が中学生ぐらいの頃、普段は嫌味だなと思っていた先生から「お前大丈夫なのか」と声をかけられたならば、その場では「いえ、別に」というような反応をしたであろうが、少なくともその先生に対しての印象は変わると思う。卒業してから何年かして「あの先生はいい先生だった」と思うようになるかもしれない。
外部からの介入を拒絶することで事態がとどめようもなく悪化する例は大人の世界では枚挙に暇がない。
大東亜戦争、太平洋戦争での軍部の暴走は「統帥権」の肥大がもたらした。統帥権は天皇のものとされながらも現場では実質的には軍関係者の独断が横行し、天皇のご意志にはそぐわぬ事態となっても、内閣や議会はそれを制御することができなかった。この件は、すでに司馬遼太郎氏や半藤一利氏など多くの先達が指摘していたことなので、筆者が述べることは蛇足であるかもしれないが、先般、「アジア主義の行方・宮崎龍介小伝」を執筆していて、やはりこの問題に遭遇せざるを得なかった。戦争終結のために時の近衛首相から中国の蒋介石への密使として上海に赴こうとしていた弁護士の宮崎龍介は出航を目前にして、神戸港にて陸軍の憲兵隊に捕らえられた。そもそも一国の首相の代理として外国の要人に面会に行くのに「密使」となること自体が異常であるが、当時の陸軍の手先である憲兵は首相の意向に平然と逆らったのである。こうした状態の行きつく先はあの悲惨な日本の敗戦であった。
外部からの介入拒絶がたくさんの尊い命を奪った。
首相が憲兵隊に平素から「髪の毛切ったじゃん」などと声をかけていれば最悪の事態は回避できたのか。
戦争が終わっても、外部からの介入拒絶による悲劇は姿、形を変えながらも亡霊のようによみがえる。
学生運動盛んなりしころ、大学での「学生自治」を盾にして、学生たちは警察権力はもとより、教職員の介入すらも「管理強化反対」の名のもとに拒み続けてきた。その結果
、学問の府はテロやリンチの温床となってしまった。機動隊員が学生たちに「成績上がったね」と声をかけていればいい問題ではないだろう。
学問、思想の自由は教職員や学生の身体、生命の安全が確保されてこそ成り立ち得るものであり、異なる信条の人間に暴力を振るうのは、学生自治の自殺行為であるはずだ。
殺人事件が起こりかけていれば、それがどこであっても警察の出動を要請するのは自明の理であるはずだ。
戦争が終わって七十数年、平成という時代も終わろうとしているが、データ改ざんなどの企業内での不祥事は絶えない。外部からのチェックがなければ不正は際限ない。内部通報者への保護法も実効性への疑問が残るという。
この稿を書いている頃、厚生労働省の不正統計が問題となっているが、これとても、中立的な第三者機関の介入なしでの解決は難しいであろう。
明治大学准教授の内藤朝雄氏はエスカレートするいじめの原因に学校の聖域化を指摘し、その解除キーとして警察の介入を推奨している(内藤朝雄著「いじめの構造」講談社刊) 。この点については筆者は賛同する。
上述の番組の出演者や制作者は残念ながら認識が甘いと思わざるを得ない。
子供とコミュニケーションが とれていない教師はいじめに介入するな、との説は内藤氏が述べている「学校の聖域化」を助長しているだけではないのか。
さて、最後になぜ件の番組よりも横田順彌氏の文学の方が「いじめをノックアウト」
という題名にふさわしいのか。それは筆者がお世話になった方であるから、というのではもちろんない。
例えば同氏の著書「明治バンカラ快人伝」の主人公は、少年時代に近所のガキ大将と取っ組み合いの喧嘩をしたが、「ワン、ツー、スリー和睦」で仲直り、以後は無二の親友となったのである。明治時代末期の話であるが、今の子供たちに足りないのはこうしたことではないのか。
学校の教科書に出てくるような政治家や小説家だけではなく、こうした青少年たちの姿をよみがえらせるのも何かの役に立つのでは、と思っていた。
それだけに横田氏の急逝は残念だ。
|
|
|
きもち:超悪い
|
|
|
コメントの新規投稿
|
|
トラックバック
この記事へのトラックバック URL
http://point-b.jp/b/tb.php/293695
|
現在トラックバックされた記事はありません。
|
|
|
|